映画 ひらいて を語りたい

映画 「ひらいて」 を語りたい

 

1.始まり~感想 

魅力は

もやもや】と

心をひらく、身体をひらく】だ!!

Twitterやタイムライン上で、高評価を得ていた本作品。

知っている情報は、「夕立ダダダダダッ」が櫻坂46の新曲かもという噂になったことぐらい。

何気なく、評判良いから観にいこうかという具合。

 

<けっこうこんな感じで映画を見ることが多い。直感で観ることが多い。映画のポスターや予告だけで観ることもしばしば。前情報を入れないで観るのがけっこう楽しい。>

 

劇場は女性が多数であり、座席に座ってから物語の内容を確認してみた。

 

<間違えたかも。これ恋愛映画か。1人で観るもんじゃないのに。>

<しかし、すでにお金を支払っているし。勿体ない。>

<誰も自分を見ているわけじゃないけど、なぜか【1人ワロタ】とニコニコ動画でいじめられているような気分になった。>

〈いや、映画の評判がいいからだいじょうぶ。映画好きが見る作品なんだ。そうだ。うん大丈夫。〉

と心の声が鳴り響いていた。

 

<え、主人公って山田安奈だったんだ。>

<最近出ていて、とくに「小さな恋のうた」と「ミスミソウ」めっちゃ好きなんだよな。>

<まじで、芋生悠じゃん。「ソワレ」最高に感動したんだよ。あの儚げで趣ある演技力。どこか無気力で生きる力より諦める力というか、なにか達観しているような雰囲気。クラスの中では1人いるけど、孤高な存在で、触れてはいけない神々しさがあるんだよな。>

<監督の名前は初めて聞いた。映画「21世紀の女の子」って評判良かったけど、すぐ上映終わって見れなかったし、GEOでのレンタルもなかったんだよな。初見ってなんかわくわくする。しかも、綿矢りさの作品を高校時代から映画化したい思いがあるって、素敵な監督なんだろうな。描きたいものがある監督って強い«らしさ»をもっていると思う。>

<綿矢りさ!! 知らんかった。綿矢りさといえば「インストール」、「勝手にふるえてろ」、「私をくいとめて」大好きすぎるー!あのもどしかしさと、葛藤と苦悩と、苦渋が多くて、妄想が爆発していて、感情が抑えきれない主人公たちが魅力なんだよな。毎回毎回、行動して失敗した主人公の後悔しもがいている様がだいすき。共感するし、心が痛くなる。こういう人間模様を描ける人って好き。よく人間観察をしている人なのかな。主人公目線で人を緻密に観察した表現が多くて好き。>

など上映時間までに情報収集してしまった。

 

概要としては、

常に友人に囲まれ男子にも不自由しない愛が、その姿を見ただけで胸を苦しくさせるほど恋焦がれているのは、同じクラスの西村たとえ、だが彼には誰にも知られていない«秘密の恋人»=新藤美雪がいた。いびつでエキセントリックな三角関係は、思いもよらない方向へ走り始める。

 

〈なるほど。。事前情報とってしまった。それでも中々面白そうじゃん。〉

 

時間にして15分。

期待値は最大値まで上昇。

わずかに曇る眼鏡。

両隣が空いていて良かった。一安心。

前後も誰もいない。良し。

映画泥棒が流れ、お馴染みの映倫の広告が流れる。

何回も見ていて飽きている広告なのに、自分の高鳴る気持ちを抑えることで精いっぱいだった。

 

そして、冒頭のシーン。

一気に引き込まれた。

 

「夕立ダダダダダッ」に合わせて、主人公たちが住む街と学校が一気に映され、グラウンドに向かっていく。

文化祭で披露するダンスを練習している女子生徒にフォーカスしていく。

山田杏奈(役:木村愛)を中心として、ダンスが展開されていてく。

<山田杏奈って華奢で可愛いのに、どこか不思議を纏っている。すてきだ。>そんな思いの中、1人の女性(芋生悠:役:新藤美雪)がダンスの輪から外れてしまう。そして、物陰に隠れてしまう。気づいた愛はその子を追う。美幸は倒れており、ろれつが回らず「ジュース」とたどたどしく一言。すぐさまジュースをもっていくが、上手く飲み込めない。愛は口移しを行う。

 

なんて美しさ。やらしさはない。

 

このものの数分の映像だけで、これは傑作だと。確かな手ごたえがあった。

今まで、同性愛系統の名作映画たちが彷彿されて脳内を駆け巡った。

たとえば、「ムーンライト」

君の名前で僕を呼んで

「性の劇薬」

「パレードへようこそ!」

「彼らが本気で編むときは」

リリーのすべて

「窮鼠はチーズの夢を見る」

「ミッドナイトスワン」

「チョコレートドーナツ」などなど。

 

本作品は、あくまで、好きな男の子(たとえ)を振り向かせるために、その彼女(美雪)を奪うための行為。それなのに、どこか色っぽくて綺麗だった。

「無駄だ、なにしてるんだろう私。」を繰り返すも、美雪と肌を重ねていくのだ。

 

物語が進むにつれて、たとえを知りたい気持ち、たとえを我が物にしたいという欲求、たとえは私だけを見て欲しいという願いがどんどん強くなり、暴走していく感情、破滅していく日常が映し出されていく。

 

この盲目的な愛情表現は未だかつてない魅力があった。

盲目的な愛や暴走的な愛といえば、

「アンダー・ユア・ベッド」(この作品思い出した!)

「お嬢さん」(これが一番近いかな?)

恋する惑星」(言いたいのはこういうこと!)

勝手にふるえてろ」(原作綿矢りさ

「私をくいとめて」(原作綿矢りさ

「108 海馬五郎の復讐と冒険」(かなり違う)

「私の男」(ちょっと行き過ぎ)

娼年」(違うかな?)

「累」(ヨカナーンのシーンがそう思う)

「ファンシー」などなど

のような雰囲気を感じられた。

あくまで私が思う雰囲気であり、本作とは別系統にある可能性が高い。

しかし、それ以上に、汚い愛≒綺麗な愛と、微妙に相反しているようで、イコールな関係、この【もやもや感】があると思うんです。

そして、この【もやもや感】が本作の魅力なんだろうと感じます。

 

監督 首藤凛が一番見て欲しいシーンと言うシーン。

それは、「愛と美雪のベッドシーン」。

首藤監督は以下の様に述べます。

「この原作を映像にするなら、【心と身体の話にしたい】っていうのはずっと思っていて、愛が心をひらいて、美雪が身体をひらく。心と体の繋がりは、すごく大事にしたっかんです。」と。

そして、プロデューサー杉田浩光は言います。

「僕がこの企画に乗った最大の理由は、たくさん理解できないところのある物語だということ。この3人のトライアングルの正解図はまだ僕にもわかっていませんが、それがある種の作品の魅力であってほしい。【もやもや】したまま劇場を後にしてほしいというのも、ひとつの狙いではあります。」と。

主演を努めた山田杏奈は言う。

台本を読んでも現場でも、私は愛のことがわからなかったし、正直いまだにわかっていません。今回は、わからないながらもやることが監督の助けもあってできたので、またひとつ女優としての新たな引き出しが増えました。愛ととともに山田杏奈の心もひらかれました。」と。

 

このことからも、製作者側でも、理解できないもの=【もやもや】とした感情が、映画として面白みがあり、そこが魅力だと感じられていることがわかります。

 

そして、【心と身体をひらく】ということ。

人間の繋がりって、先に心をひらくことなのか?身体をひらくことなのか?

それって多感な思春期の時期によくあることだと思うんですよ。

好きでもない人と行為をいたすこと、皆がしているから行為をいたすこと、

真実の愛って?まず順序があるよね?

なんて、そんなものはどうでもよくなる愛もあると。

 

特に、主人公の愛は、心のひらきより、身体をひらいてから、少しずつ心が満たされていくのを感じていきます。美雪の肌や感触や、女性同士でいたすことはないのに、ただたとえに向いて欲しい思いに反して動く。

そして普段隠しているものをさらけだすこと=ひらくことを覚えるんですよ。

後半になって、たとえを教室に呼びます。美雪のスマートフォンを使って。

そこで愛は下着姿になり、たとえに求めます。

どうしたら好きになってくれるの?

どうしたら私だけを見てくれるの?

たとえは、驚きや興奮よりも、畏怖を感じ、よろめきます。

 

それでも、愛と話します。

 

ここで初めて、愛とたとえの目が繋がるんですよね。

やっと同じ場所にいられたような。

私的には、ここで初めて繋がりをもてたと思えるんですよ。

愛の目標は1つ達しているんですよね。

我を通した愛の力だとも捉えられます。

 

すごく印象的なシーンですが、狼狽している演技が見事。ジャニーズだと侮ることなかれ。ほんとうに、女性が下着姿で待っているってなんか怖いよね。

 

物語は進み、たとえが東京への進学を決めたころ、父とのいざこざがあります。

そこに、美雪と愛がきます。

たとえの父:崇(演:荻原聖人)は男で1つで育てており、圧力と攻撃性に満ちています。自分の言うことが正しい。自分の言う通りにすればいい。そんな暴力性を感じられました。

そこで、愛は同族嫌悪を感じます。

原作には以下のように記載されています。

「猛々しい怒りの感情に支配され、久しぶりに、抑えのきかない無茶苦茶なパワーが腹の底からせり上がってくる。そう、私は恋をして自分のふがいなさを味わうまえは、怒りと自信に満ち溢れた女の子だった。私はまだ失っていない。この向こう見ずの狂気さえあれば、なにも恐くない。私はだれにも、負けたりしない。」と。

崇を愛は殴ります。

「こっち向け、馬鹿!!」と。

 

本作を見て、一番好きなシーンでした。

自分自身を見つめ直し、色々な負の感情をのせた渾身の1発。

ここまで愛は思い詰めたし、思い通りにならなかったし、心底どうでもよくなった。爪は欠けて、髪はぼさぼさ、私服はだるだる、テストの点数は下がり、素行も悪くなっていった。

そんな愛を考えると、このシーンが愛の身体で示した暴力性だったと思えます。

今までは心の暴力性に満ちていたけれど、身体での暴力性というのは乏しかった。

なにせ、美雪をいじめたり、殴ったりしても良かったのに。愛はそうしなかった。

そこまでの強烈な行動性はなかったのだ。

たとえを思っていたし、たとえが愛している人を知りたかった。

身体の関係性まで至ったのは、そこを抑えたのではないだろうか。

 

だからこそ、爆発させた渾身の1発に魅力を感じぜざるおえない。

 

卒業式。

愛の机の中に一通の手紙が入っている。美雪しかない。

美雪は、たとえが好きでそのために近づき、身体の関係性をもったことを知っています。それでも愛を受け入れています。

愛に手紙で伝えます。「ほんのひとときでも、心を開いてくれたのであれば、私その瞬間を忘れることはできません。」と。

そして、美雪のクラスへ。

「また、一緒に寝ようね。」と。

 

そして幕は下り、エンドロールが流れます。

なんとも言えない【もやもや】で溢れていますね。

綺麗な終わり方だと思います。それでも、すっきりはしませんよね。

それに、このあとどうなるのって気持ちすら出てきます。

 

原作では、このあと電車に乗って、折った鶴をひらいて語っていきます。

それが合っても良かったのになぁ。でも、教室で終えたのも、どこか爽快感がありましたね。

 

首藤凛監督と綿矢りさの対談より抜粋。

首藤「原作では、愛が美雪の教室に行った後、そのまま学校を出ていくっていうのがすごく良かったんです。狭い世界から出て衝動的に遠くへ行きたくなる気持ちもわかるし、手ぶらで昼間の電車に乗っている映像も頭のなかで好きだったので、あのくだりも最初は入れてたんですよ。ただ、たとえと愛の関係の変化の上で、それを超えてくる美雪と愛の関係というところで終わらせたほうがいいのかなぁと思って。」と言います。

 

やはり、監督の言う通りで、関係性の終止符をうってくれましたよ。

きっと電車のシーンも山田杏奈の表現力や表情ですべて語っていくのだろうと思えます。それもやっぱり見たいかも。

 

以上が見た時に感じた思いです。

 

2.瞳を語りたい。

なんといっても、本作は瞳について語っているシーンが多い。

原作でも「彼の瞳」という言葉から始まっています。

綿矢りさの小説では、対象者をよく観察していますよね。目や口元や頬、輪郭だったり、身体の大きさ、手の厚さや質感が丁寧に書かれています。

だからこそ、映画のなかでも印象的に感じられたのだと思います。

原作で特に瞳を語るところで好きなのが2シーンあって、

「愛ちゃん、愛ちゃん、好き」

「私のどこが好き?」

「刺してくる瞳が好き」

「刺す?射るじゃなくて?」

「刺す。目をぎゅっと細めるときに」

「コンプレックスなんだけどな、一重の細い目」

 

「愛ちゃん、こわい」

「こわがられて当然だよね。それだけのことをしたから。」

「違う、そうじゃなくて、今言ったこと、全部嘘でしょう」

「なにを言ってるの?私は本当に心から悪いと思ってるよ」

「ううん、まったく反省してない。私はもうだまされない」

「美雪、おかしなこと言わないで。どうして私が、反省していないと分かるの?」

「瞳が暗いままだから」

「愛ちゃんは表面の薄皮と内面の肉が、細い糸でさえつながっていない。完全に分離してる。だからなにを言っても私には響かないし、届かない」

 

この2つのシーンが好きです。とても原作で印象的になっています。

愛は繕いの笑顔がうまく出来ていると思っているんですけど、みんな気づいているんですよね。何回も作られた笑顔、まずしい笑顔、瞳がぼんやりすすけて、薄暗い。

それは、自分ばかりを見つめているからだ・・・・・・

だからこそ、たとえに告白したときにも

「なんか、嘘をつかれているみたい」と言われてしまいます。

本当に好きなのに、これは間違いないけれど、

それ以上に自分の思うようにいかない、我儘さ、貪欲さ、醜悪さが先に出ているんですよね。心をひらいていないからこそ、たとえには伝わらなかった。

たとえにとっては【もやもや】としたものしか伝わっていないからです。

 

原作では、愛の思いやモノローグが愛の視点で丁寧に描かれています。

映画では、モノローグを使用せず、山田杏奈の演技で示しています。

ここが、この映画で一番すごい所。

美雪と肌を重ねるシーンも、たとえに告白するシーンも、教室でたとえを見つめているシーンも、静かで、エモーショナルなのに、激動を感じ、エキセントリックな雰囲気が出されているんです。

愛を俯瞰的に、愛を引いて見れる、この技術が卓越していると言えます。

 

人それぞれの解釈ですが、

映画は多くを語らない方が俄然面白いと思います

映画を見た後に原作を読むと、愛の視点で愛の考えが書いてあるので、より理解することができます。映画は少しミステリアスな雰囲気になっていますが、その余白がいいのです。映画は映像で雄弁に語ってくれます。

とくに、今回の愛に共感できる人は圧倒的に少ないと思えます。

好きな人がいるのに、行動や考えや思いが滅茶苦茶だからです。

でも、どこか嫌いになれない。少し好きな部分があるんです。

その愛を見続けていく内に、さっきの沈黙やさっきの表情の意味って、

さっき言わなかった言葉、さっき見つめていたもの、

そんな、さっきを気になって仕方がなくなります。

だからこそ、首藤監督は【余白の魅せ方】がうまいと思えます。

 

 

3.詩と合わせて語りたい。

私はこの映画を見た時に直感的に、とある詩を思い出しました。

最果タヒの「死んでしまう系のぼくらに」より一部抜粋。

瞳の穴

さみしさはわたしの瞳に穴をあける。

失恋の数だけ、子どもを産めば、心をうめられるよって、きみは言ったし、わたしはきみの足首を海にひたしていた。死ね、生き返れと、言われつづけるような人生でした。きみが引き裂かれながら、わたしを産んでくれたらいいのに。砂漠から生えた木々が地球を枯らしていく。以下略。

この詩を読んだときに、前述した瞳について考えさせれました。

この詩からは私の解釈になりますが、自分の存在って?愛って?と考えている内に、自分の心に穴が、自分の見ているものが穴だらけになっていくと思います。なにか空洞なものが周りには散らばっていて。どこか空虚で。どこか寂しくて。

この詩の後半には、

私はきみに会いたかった。生物学的に、惑星としても、死者に会うなど不可能であることが、まるで宇宙を殺したいと言っているようだった。以下略。

と続きます。

まるで、自分の存在を否定していたけれど、きみに会なくて寂しいような、きみがいてくれたときは幸せだったように感じ取れます。生と死が隣り合わせにあることを感じられた詩でした。

 

愛にとっての瞳はこういう空洞なものがたくさんあったのでは?と思います。

たとえに出会ったことで、瞳の形や色がどんどん変化していく。

つまりは瞳=愛の感情を示しているのだと考えられます。

人との出会いで、その人は形成されていくように、愛にとってたとえという存在で、空洞がたくさん生まれて、少しずつ形成されていったのでと考えられます。

 

ぼくの装置

ぼくのことをきらいなひとがたくさんいるきがするし、

実はそんな人すらいないようなきもする、今日も、撃ち殺されなかったと泣きながら眠る夜はただ一人で、夜の重さに苦しみながらシーツに溶けられないことをうらみ、朝に叩き起こされる。

あいされたい

それはべつに深刻ではなく。ころされたい、でもいい。以下略。

この詩からは、ぼくを気にしなくてもいいし、気にしてもいい。けれど、ぼくを君たちの尺度で測らないで欲しい、ぼくはぼくをわからないし、きみはきみをわからないだろう、関わらないでほしい、ぼくを利用しないでほしい。

だから死にたい。そんな感じに思えました。

だから今日が来る、今日も生きてしまった、夜が重くて、朝が苦しい。そんな思いになったのかと思えます。

 

愛が朝起きるシーンが何度か繰り返されます。

災害用ベルのような、緊急を示すようなエラー音で毎日起きています。

物語が進むにつれて、やつれていく愛は、どんどん部屋も汚くなり、身なりも汚れていきます。

その過程を示しているように思えた詩です。

自分の抑えきれない感情が、行動化し、暴れてしまい、落ち着かなく、あとで後悔するを繰り返している内に、また朝が来ます。

たとえと美雪の手紙の内容を知りたくて、夜の学校に忍び込むことを考えます。キャミソールの上に半袖のシャツをきて、短パン姿で夜道を自転車で駆けます。その時は感情の思うがままに、手紙を読みたいと思うがままに。家までの帰路では、自分がした行為について考えさせられます。どうしてここまでできたんだろうか。

ときに、いなくなりたくなります。ときに、死にたくなったであろうに。

原作では、最後電車に乗ります。それは遠くに行きたいから。その場を離れたいから。

その愛の行動や思いに、合っている詩なのかなと思って仕方ないです。

 

4.山田杏奈を語りたい。

山田杏奈という存在を「ミスミソウ」の子だとしか認識していませんでした。

今まで見ていた「小さな恋のうた」「名も無き世界のエンドロール」「あゝ荒野前編」「TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ」「屍人荘の殺人」「樹海村」で、いたいたと、あのとき出てたなんて思いました。

印象としても、可愛い子が出ているな、これからの活動も期待していいかもぐらいな程度でした。

しかし、本作を見た時に、こんなに可能性に満ち溢れているとは。

驚愕でした。

前文にも述べていますが、表情や仕草や態度、話し方、歩き方において、本作の【もやもや】を示してくれています。これってすごい。本当であればモノローグを入れたっていい、思いを文章に載せたっていい、明白な説明文は書けるのに、この女優一本で示してくるんです。

美雪が自分の事を愛が好きだと誤認した時の表情が、まぁ素晴らしい。

下着姿になってたとえに言い詰めるところ、

学園祭の準備でたとえに告白するところ、

展示物が認められ表彰状をたとえと一緒にもらい担任に写真をとられるところ、

屋上で空を見上げるところ、

まぁ切りはないんですけど、説明しない美学がふんだんに詰められています。

山田杏奈も、わからないまま演じたというが、説得力を感じられた。

こういう演技力できる女優って大事だと思います。

パッっと思いついた女優が2名います。

 

蒼井優

彼女がその名を知らない鳥たち」の北原十和子を思い出しました。

あの言い切れない欲求が満たされていない雰囲気。歪んだ愛って感じ。

あの雰囲気を感じたんですよね。

「オーバー・フェンス」の田村聡も思い出しました。

急に踊りだしたり、激情したり、せわしない変人。

きっと、愛が到達する道かもしれない気がして。

ifの愛かもしれない。そんなように感じています。

 

二階堂ふみの、

「私の男」の腐野花

この国の空」の田口里子

人間失格 太宰治と3人の女たち」の山崎 富榮

みたいな雰囲気もありました。

あの男性に対して、少しエロティックな感じで、身をささげたい暴君さを感じるんですよね。愛の暴走って感じは近いんじゃないかな?

 

そして、私は山田杏奈の出演している作品を見直してみました。

どの役でも、自分に落とし込めて理解してから演じられているように強く感じました。

そこで勝手なランキングですが、山田杏奈を見るならこれがオススメを紹介します。

 

1位 ひらいて 

2位 ジオラマボーイ・パノラマガール

3位 新米姉妹のふたりごはん

4位 幸色のワンルーム

5位 ミスミソウ

6位 樹海村

7位 小さな恋のうた

8位 RADWIMPS 「夏のせい」

9位 Softly 「あなたのことを想って指先でなぞる文字は(あかりとまさき 告白編.)」

10位 屍人荘の殺人

 

どれも素晴らしい、山田杏奈が見れると思います。

個人的には見やすい順って感じでつけています。

とくに、好きなのは「ジオラマボーイ・パノラマガール」です。

 

この作品って、山田杏奈(渋谷ハルコ)が運命的な出会いをしたけど、相手がそう思っていない。でもハルコは運命だと思うから、君が好きって感情だけで動くのが印象的なんですよね。本作にも近いけど、もっと純粋な女子高生だし、等身大の演技が見れます。

とくに語られる詩が好きなんです。

 

好きの気持ちはずっと残る
好きな女の子さえいれば世界がどうなろうと知ったこっちゃない

もう一回あの人に会いたくなった
あの出会いは世界の歴史とか、地球の危機一髪を救うような、きっとそれを運命と呼ぶんだって

とうきょう、とうきょう、ゆりかもめ
窓から見える風景はどこまでもスクラップアンドビルド、ビルはのびるよ、線路は続くよ、とびだせハイウェイ、迷うぜサブウェイ、ハッピーなヤングが群がってウェーイ

とうきょう、とうきょう、ダンジョン渋谷、赤信号も横断歩道も白線も、目立ちたがり屋のネオンも、おしゃべりな宣伝カーも、全部全部だい好きなんです、ニヤけた顔して、小踊りしちゃうのも、きっとこの街のせい、

ほらとうきょうタワーに灯がともる
オープンセサミがとうきょうがいる

きれい
きれだよな
かっこいい
かっこいいよな

みているだけで元気になっちゃう

なんかがんばるよ
うん、なんかがんばる

物語の中盤で流れる詩なんですけど、山田杏奈の活気のある表情と動きが印象的で好きなんですよね。見ていて楽しくなるし、なんか生きる力すらもらえる。

終盤にかけて女友達とキスするシーンもありますが、本作とも少し違う雰囲気で良しです。

 

まだまだ拝見していない作品が多いので、楽しみがたくさんです。

これからの活躍にも多いに期待できる女優だと思えます。

 

次は、

・哀愁しんでれら

・彼女がすきなもの

・五億円の人生

・21世紀の女の子

・荒ぶる季節の乙女どもよ。

なんか、見たいなぁと日々考えています。ゲオに置いてないんだよな(´;ω;`)

 

追記:

原作では、学園祭の展示物が、オードリー・ヘプバーンティファニーで朝食を、机を並べて作ることになっています。

映画だと桜の木なんですよね。原作では、たとえと愛が二人で展示物を作成します。その過程で、キセルを加えたオードリー・ヘプバーンがうまくかけないとたとえが言い、愛がポージングをとります。

できれば、山田杏奈にもそのようなシーンがあると胸キュンでしたね。

キセルを加える真似、オードリー・ヘプバーンを意識したポージングなんて、想像するだけで楽しくなります。

映画の中では表現する予定がなかったため、架空の出来事になりますね。

あぁ~見てみたい。

あとあと、美雪とのベッドシーンも綺麗なんですけど、下着姿の山田杏奈もすごくきれいなんですよ。興奮とかそういう性的なものではなくて、もっとアート的な、美学的な意味で綺麗なんです。

山田杏奈は「女優は汚いところを魅せる仕事だ」と言われたことを意識しているようで。好きな言葉なんですって。だからこそ、力強い演技力と合わせって、素敵なシーンに成り得たんだと、深く思えました。

 

あと、脱線しますが、「お耳に合いましたら」ってドラマを見て。

あれ、面白いですね。

第1話が魅力的で、「好きを語れないと好きが失う」ってところ。

これ怖い。って思って。

映画が好きなのに、仕事が忙しくて、ブログを一時休止していたけど、

映画の好きが失われるって思って。

だから、今書いていてすごい楽しい。

好きを伝える力って、大事だと思いました。

 

余談が過ぎましたが、本作「ひらいて」は傑作ですね。